見られたくない過去の遺産

見られたくない過去の遺産

押入れの奥から、ビニール袋に入った埃まみれのものが出てきました。何かと思い見てみれば、小学校時代の文集です。ページはすっかり茶色くなっていて、ちょっと厚めの紙を使った表紙は、一度はがれてしまったのか、ガムテープで貼ってありました。でもなぜか、思いっきり曲がっているのですよ。「雑だなあ。もうちょっと綺麗に揃えてくださいよ」と過去の自分に言いたくなってしまいました。
内容は当時担任の先生が作っていた、お知らせを書いたプリントや、クラス皆の自己紹介シート、原稿用紙に書かれたままの、花丸がついた作文もありましたね。拙い鉛筆の文字が、自分の成長を教えてくれます。それはとても微笑ましく、懐かしくもあったけれど、何が書いてあるかは読む勇気はなかったので、そのまままた押入れに突っ込んでおきました。
同級生の友達のひとりは「過去は捨てた」なんて言っている人もいましたが、皆はこうした文集を、大事に保管しているのかしら。捨てる覚悟はありません。でも、遠い未来、自分が天に召された後に、誰かに見られるのも恥ずかしいなあと思っています。まさに遠すぎる将来のことなので、今から考えても仕方ないのはわかっているのですけれどね。

作品の魅力は作中にある

作品の魅力は作中にある

ふと、思いだしたことがあります。いつだったか有名な男性漫画家さんが「作品のイメージを壊さないために、姿は見せない」と言っていたことです。たしかに、読者が勝手に想像していることというのはありますよね。
たとえば、とてもかっこいいバトル漫画を描かれている人。ペンネームも中性的だけど実際は女性だったということを知った時は、かなり驚きました。逆にどきどきするような恋愛漫画を男性が書いていた時も、同じようにびっくりはしましたね。でも作品についての好き嫌いが変わるということはなかったです。だって結局かかれているのはご本人だし、その方がどんな方でも、作風が変わるわけじゃないのですもの。
しかしここまで書いて気付きましたが、そもそも女性だから、男性だからで話のイメージを決めてしまうのは、性差別かもしれません。あくまで「ひとりのクリエイターが、素敵な話を書いている」というのが、正しい言い方なのでしょう。自分で言っておきながら、そう納得しました。顔出しするもしないも、作品の良しあしにはまったく関係ないですものね。出したい人は出せばいいし、ちょっとそれは……という方は隠れたままで、とにかく元気にしてくれていればいいのです。

喜び溢れる贈り物交換会

喜び溢れる贈り物交換会

この間、友達とプレゼント交換をしました。特に意味はありません。なんとなく「やってみようか」という話になったのです。ただ贈り物に差があってはいけませんから、事前に使う金額の上限を決めました。まるで、小学生時代のクリスマスパーティーのようですね。
あの時も、いくらまでと決めてプレゼントを買ったのですよ。その後は皆で持ち寄り円系に座って、曲に合わせてぐるぐる回していきました。どれが自分のところに回ってくるのかというドキドキ感が、懐かしくも甘酸っぱい記憶として残っています。今の子供達も、経験があるのではないでしょうか。
昔は、学校で毎日使う文房具を選ぶことが多かったけれど、大人になった私が選んだ贈り物は、文庫本です。それだけでは寂しいかなと思って、お菓子をセットにしました。今回は渡す相手が決まっているので、その子の好きそうなものを考えましたよ。これなら喜んでくれるかなと店をうろうろしている時間の楽しかったこと!誰かのために時間を費やすって、素敵ですね。ちなみに彼女からは、動物のマスコットとハンカチのセットを貰いました。贈り物を選んで購入し、実際に交換するまで、久しぶりに心躍る時間を過ごすことができて良かったです。

星が教えてくれた子の成長

星が教えてくれた子の成長

最近、知り合いのお子さんが星座に興味を持っているそうです。自宅のベランダから空を見上げて、「あれは何座だよ」と説明してくれるのだとか。最初はパパである知り合いがいろいろ教えてあげたのに、「今は全然かなわない、あの子は何でも知っている」と言っていました。この興味がいずれ、ひとりの学者を生むかもしれませんね。
星好きの流れで当然のように、神話にも興味を持っているようです。。最初に読んだのは、パパが勧めたギリシャ神話の本。その後は図書館で見つけた北欧神話と進んでいるそうですが、次は何を選ぶのでしょう。同じような話は世界各国ありますから、共通点や違うところなどに気付けば、彼女の好奇心ならば、どんどん深いところへはまっていくのではないかしら。
彼は、次に勧める本を選びながら、「子供から教えられるのはとてもうれしい」と言っていました。生まれたばかりの泣いてばかりの時代から知っているからこそ、成長が驚くべきことだし、立派に大きくなっていってくれることが誇らしいのだそうです。そんな彼女を育てたのはあなただよと言うと、照れくさそうに笑いました。まだ小学生の彼女には、たくさん本を読んで知識をつけて、もっとパパを喜ばせてあげてほしいです。

アレンジされて時代を巡る

アレンジされて時代を巡る

友人が最近、昔の音楽を現代風にアレンジした曲を聞いているそうです。原曲と聞き比べると、メロディライン以外全部違っているというくらい差があるものもあって、面白いと言っていました。ちなみに原曲しか知らない家族が聞いた時には「これ……どうしちゃったの?」とびっくりしていたそうです。「変わりすぎだよ」と大笑いしていたと聞いて、私も笑ってしまいました。
この現代アレンジ云々は、旧作の小説が新訳で出版されるようなものかしらと思っています。大筋は変わらないけれど、言葉遣いや言い回しが変わるのですよね。時代を感じて読みにくかった文章が、さらさらと頭に入るようになっている場合もあるので、たいてい古い作品を買う時は、最新版の訳のものを選んでしまいます。ストーリーを追うのに一生懸命になりたいので、旧字体や仮名使いなど、あまり慣れていないことに頭を悩ませたくないのです。
私はこうして変化をしながらも、昔のものが今に残っていくのは、素晴らしいことだと思います。まったく消えてしまうよりは、ずっといいですよ。それに現代版から興味を持って、オリジナル版を調べる人もあるでしょうからね。変化し続けて時代を巡り、いつまでも人の心を癒し続けて欲しいものです。

利便を追い、懐古する時代

利便を追い、懐古する時代

活字離れという言葉を聞くようになって、どれほどの年数がたっているかはわかりませんが、私は子供の時からずっと本を読んでいます。最初は趣味と言っていましたが、もはや習慣のようなものですね。毎日歯を磨き顔を洗うのと同じ感覚で、ページをめくっていますもの。だから世間の方にとっては、読書が習慣になっていないのだろうなと思っていました。
でも紙の書籍からは離れたけれど、逆にインターネットでの読書率は増えているという話もあります。それなら人が手にしなくなったのは本であり、活字を手放したわけではないのですね。手のひらサイズで、いつでもどこでも持ち歩けて、世界中の情報と繋がっている便利な機械があるのだったら、そうなるのも当然のことでしょう。ただちょっと、寂しいですけれど。
いつか、新聞も教科書も全部、電子になってしまうのかしら。手紙もなくなり全部メールで、お中元もお歳暮もネット注文だけになったりしたら……すごいけれど、もったいない気はします。だって手書きのハガキとか届くと、とても心がときめきますもの。文字の巧拙ではなく、その人がペンを持って書いてくれたということが嬉しいのです。今では珍しいからかもしれませんが、やっぱり、昔ながらのものは残ってほしいなあと思います。

ながら読書で時間を捻出

ながら読書で時間を捻出

「最近忙しすぎて、本も読めない」と言っていた友人が、歯磨きと読書を並行させることを思いつきました。右手で歯ブラシを持ち左手で本を持つらしいのですが、これ絶対、歯磨き粉こぼれるパターンですよね? 私ならやらないなあと思いつつ、まあ器用な子だから平気かもと考えていたら、この間、案の定泣きのメールが届きました。「サイン本に歯磨き粉飛ばした」ですって。どうしてあえてそんな大事な物を読んだのでしょう。呆れつつ慰めておきました。
私はどうしても時間がない時は、料理をしながら読書をします。たとえばお湯が沸騰するまでの間、他に作るものがあればそちらを手掛けますが、カップラーメンを食べたいからお湯だけ必要という場合だってあるわけです。そんな時は、どうせコンロからも離れられないしと、目の前に立ってページをめくります。私は、冬なら火の近くで温かいし一石二鳥だと思っていたのですが、他の方はどうかしら。
やりたいことならば、いくら忙しくてもできるはず……とは言いません。でもやっぱり、やりたいことをすっぱり諦めてしまうのは寂しいですよね。だからなんとか工夫をして、自分が好きなことを続けていく努力はしていきたいと思っています。

本選びは感覚第一

本選びは感覚第一

古本市という言葉を聞くと、とても心がときめきます。なぜかお宝が眠っているような気がするのですよね。色あせた書籍と少し埃っぽい空気に、その本が生きた時代を感じるからかもしれません。もちろん、フリーマーケットの片隅で売られている、数冊の文庫も好きですよ。数が少ないからこそ、何があるのだろうとどきどきします。チェーン店はなんでも揃うから便利ですし、要は私は、本に関わるところならどこに行っても楽しめるのです。
私の友人は、「どんなレストランにも発見がある」と言っていました。彼女は料理を作るのが好きで、少し食べただけで材料や味付けに何を使っているか、まるでクイズのように当ててしまうのです。だから美味しいものを食べた時は当然、いまいちの味でも「こうしてはいけないんだ」と勉強になるのですって。その話を聞いた時、「物事の良しあしを判断するには、基礎的な知識が大事なのか」と納得したのを覚えています。
だからといって、私が古書に関する知識を持ち合わせているわけではありません。ただ今の新刊の中にはないものが、自分の好みや望みに合っているか、敏感に察知しているだけです。その点では彼女の素晴らしい味覚と同じ、感覚が良書を教えてくれるのだと言えるでしょう。

読書中の猫背に注意

読書中の猫背に注意

夜更かしが常で、寝坊して朝食は抜き、お昼はたいていジャンクフードかパン、という友人がいるのですが、彼はそんな生活をしていながらも、ほとんど健康を害したことはありませんでした。花粉症はあるものの、二、三年に一度風邪をひくくらいです。しかし先日、突然胃の不調に襲われたそうです。痛いのではなく、なんとなく気持ちが悪いのだと言っていました。
でも本人は、今までが元気だったので、実際はどこが悪いのかわからなかったのだとか。それで家族に「この辺が変」とお腹をさすって見せたら「そこは胃だ」と言われたのですって。ただ病院にはいきたくないということで、一瞬間近く放っておいたら……なんと、すっきり治ってしまったというから、びっくりです。やっぱり、もとが健康な人は違うなあと思っていたのですが、詳しく聞いたところによると、たぶん猫背が原因とのことでした。
リビングでくつろいでいたところ、「もしかしたらその姿勢が悪いんじゃないか」と家族に言われ、膝を抱えて背中を丸めて読書をするのをやめたら、元気になったそうです。確かにそんな姿勢をすると、内臓を圧迫しますからね。体に悪そうです。私も読書の際には気を付けないといけません。

児童書の配列事情

児童書の配列事情

先日スーパーマーケットに出掛けた時に気付いたのですが、お菓子売り場って独特の配列になっていますよね。小さな子が好きそうなものは一番下の棚に、年齢が大きい子が選びそうなものは上の方に置いてあるのです。おそらくは対象年齢に該当する子供たちが、それぞれ目につきやすいところ、手が届くところに置いているのでしょう。だから店内に「ママこれ買って」などという声も、響いてしまうんですね。
そこで私は、書店の場合はどうだろうと思いました。スーパーの棚のように一番下までは置かないから、平積みする台の上ということになるでしょう。気になって児童書売り場を覗いてい見ると、私が行ってみたところでは、遊べる本や大きな絵本がメインに置かれているようです。触ると音が出るものや、テーブルの上においてページをめくるサイズのものですね。
でも、飾り棚のように目立つところに並べてあるものも大きなサイズだったから、あまりこだわりはないのかもしれません。お菓子のように「これが欲しい!」と本人が決めるというよりは、親と相談して選ぶ可能性が高いから、ジャンルが別れていれば、問題はないのでしょうか。想像の思考ではありますが、考えるとつい真剣になってしまいますね。