最近、知り合いのお子さんが星座に興味を持っているそうです。自宅のベランダから空を見上げて、「あれは何座だよ」と説明してくれるのだとか。最初はパパである知り合いがいろいろ教えてあげたのに、「今は全然かなわない、あの子は何でも知っている」と言っていました。この興味がいずれ、ひとりの学者を生むかもしれませんね。
星好きの流れで当然のように、神話にも興味を持っているようです。。最初に読んだのは、パパが勧めたギリシャ神話の本。その後は図書館で見つけた北欧神話と進んでいるそうですが、次は何を選ぶのでしょう。同じような話は世界各国ありますから、共通点や違うところなどに気付けば、彼女の好奇心ならば、どんどん深いところへはまっていくのではないかしら。
彼は、次に勧める本を選びながら、「子供から教えられるのはとてもうれしい」と言っていました。生まれたばかりの泣いてばかりの時代から知っているからこそ、成長が驚くべきことだし、立派に大きくなっていってくれることが誇らしいのだそうです。そんな彼女を育てたのはあなただよと言うと、照れくさそうに笑いました。まだ小学生の彼女には、たくさん本を読んで知識をつけて、もっとパパを喜ばせてあげてほしいです。
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アレンジされて時代を巡る
友人が最近、昔の音楽を現代風にアレンジした曲を聞いているそうです。原曲と聞き比べると、メロディライン以外全部違っているというくらい差があるものもあって、面白いと言っていました。ちなみに原曲しか知らない家族が聞いた時には「これ……どうしちゃったの?」とびっくりしていたそうです。「変わりすぎだよ」と大笑いしていたと聞いて、私も笑ってしまいました。
この現代アレンジ云々は、旧作の小説が新訳で出版されるようなものかしらと思っています。大筋は変わらないけれど、言葉遣いや言い回しが変わるのですよね。時代を感じて読みにくかった文章が、さらさらと頭に入るようになっている場合もあるので、たいてい古い作品を買う時は、最新版の訳のものを選んでしまいます。ストーリーを追うのに一生懸命になりたいので、旧字体や仮名使いなど、あまり慣れていないことに頭を悩ませたくないのです。
私はこうして変化をしながらも、昔のものが今に残っていくのは、素晴らしいことだと思います。まったく消えてしまうよりは、ずっといいですよ。それに現代版から興味を持って、オリジナル版を調べる人もあるでしょうからね。変化し続けて時代を巡り、いつまでも人の心を癒し続けて欲しいものです。
利便を追い、懐古する時代
活字離れという言葉を聞くようになって、どれほどの年数がたっているかはわかりませんが、私は子供の時からずっと本を読んでいます。最初は趣味と言っていましたが、もはや習慣のようなものですね。毎日歯を磨き顔を洗うのと同じ感覚で、ページをめくっていますもの。だから世間の方にとっては、読書が習慣になっていないのだろうなと思っていました。
でも紙の書籍からは離れたけれど、逆にインターネットでの読書率は増えているという話もあります。それなら人が手にしなくなったのは本であり、活字を手放したわけではないのですね。手のひらサイズで、いつでもどこでも持ち歩けて、世界中の情報と繋がっている便利な機械があるのだったら、そうなるのも当然のことでしょう。ただちょっと、寂しいですけれど。
いつか、新聞も教科書も全部、電子になってしまうのかしら。手紙もなくなり全部メールで、お中元もお歳暮もネット注文だけになったりしたら……すごいけれど、もったいない気はします。だって手書きのハガキとか届くと、とても心がときめきますもの。文字の巧拙ではなく、その人がペンを持って書いてくれたということが嬉しいのです。今では珍しいからかもしれませんが、やっぱり、昔ながらのものは残ってほしいなあと思います。
ながら読書で時間を捻出
「最近忙しすぎて、本も読めない」と言っていた友人が、歯磨きと読書を並行させることを思いつきました。右手で歯ブラシを持ち左手で本を持つらしいのですが、これ絶対、歯磨き粉こぼれるパターンですよね? 私ならやらないなあと思いつつ、まあ器用な子だから平気かもと考えていたら、この間、案の定泣きのメールが届きました。「サイン本に歯磨き粉飛ばした」ですって。どうしてあえてそんな大事な物を読んだのでしょう。呆れつつ慰めておきました。
私はどうしても時間がない時は、料理をしながら読書をします。たとえばお湯が沸騰するまでの間、他に作るものがあればそちらを手掛けますが、カップラーメンを食べたいからお湯だけ必要という場合だってあるわけです。そんな時は、どうせコンロからも離れられないしと、目の前に立ってページをめくります。私は、冬なら火の近くで温かいし一石二鳥だと思っていたのですが、他の方はどうかしら。
やりたいことならば、いくら忙しくてもできるはず……とは言いません。でもやっぱり、やりたいことをすっぱり諦めてしまうのは寂しいですよね。だからなんとか工夫をして、自分が好きなことを続けていく努力はしていきたいと思っています。
読書中の猫背に注意
夜更かしが常で、寝坊して朝食は抜き、お昼はたいていジャンクフードかパン、という友人がいるのですが、彼はそんな生活をしていながらも、ほとんど健康を害したことはありませんでした。花粉症はあるものの、二、三年に一度風邪をひくくらいです。しかし先日、突然胃の不調に襲われたそうです。痛いのではなく、なんとなく気持ちが悪いのだと言っていました。
でも本人は、今までが元気だったので、実際はどこが悪いのかわからなかったのだとか。それで家族に「この辺が変」とお腹をさすって見せたら「そこは胃だ」と言われたのですって。ただ病院にはいきたくないということで、一瞬間近く放っておいたら……なんと、すっきり治ってしまったというから、びっくりです。やっぱり、もとが健康な人は違うなあと思っていたのですが、詳しく聞いたところによると、たぶん猫背が原因とのことでした。
リビングでくつろいでいたところ、「もしかしたらその姿勢が悪いんじゃないか」と家族に言われ、膝を抱えて背中を丸めて読書をするのをやめたら、元気になったそうです。確かにそんな姿勢をすると、内臓を圧迫しますからね。体に悪そうです。私も読書の際には気を付けないといけません。
児童書の配列事情
先日スーパーマーケットに出掛けた時に気付いたのですが、お菓子売り場って独特の配列になっていますよね。小さな子が好きそうなものは一番下の棚に、年齢が大きい子が選びそうなものは上の方に置いてあるのです。おそらくは対象年齢に該当する子供たちが、それぞれ目につきやすいところ、手が届くところに置いているのでしょう。だから店内に「ママこれ買って」などという声も、響いてしまうんですね。
そこで私は、書店の場合はどうだろうと思いました。スーパーの棚のように一番下までは置かないから、平積みする台の上ということになるでしょう。気になって児童書売り場を覗いてい見ると、私が行ってみたところでは、遊べる本や大きな絵本がメインに置かれているようです。触ると音が出るものや、テーブルの上においてページをめくるサイズのものですね。
でも、飾り棚のように目立つところに並べてあるものも大きなサイズだったから、あまりこだわりはないのかもしれません。お菓子のように「これが欲しい!」と本人が決めるというよりは、親と相談して選ぶ可能性が高いから、ジャンルが別れていれば、問題はないのでしょうか。想像の思考ではありますが、考えるとつい真剣になってしまいますね。
大事なのは触れること
この間小説の中に、子供がおばあちゃんと森の中を散策するというシーンが出てきました。最近はインターネットを使えば、どんなに珍しい動植物でもたいていは画像を見られますし、生態について詳しく知ることもできます。でもおばあちゃんは、「手に触れてみることが大事」と言うのです。
私はこの場面を読んだ時、もっともだと深く納得しました。それより何日か前、初めて作る料理に失敗していたからです。レシピ本の通りに作ったはずなのに、どこがいけなかったのでしょう。わかりませんが、やっぱり実際にやってみるということが、とても大事ですよね。それに、材料からなんとなく想像できる人がいたとしても、触感や香りや味などは、現物を前にしてみないと、正しいところはわかりません。「まずそうだけど美味しかった」「長く食べず嫌いをしていて損をした」なんてことだってあるのです。
食べ物のみならず、他の事に感じても同じです。実物を知っているか否かで、その物に対するイメージはかなり違うと言えるでしょう。だからこそ私は、積極的になんにでも触れていきたいと思っています。きっかけのぶんだけ、ちょっとだけでもいいのです。それでその後何かが、大きく変わるかもしれません。
若い友達が古い作品を好む理由
年下の友人に、古い作品にとても詳しい人がいます。私の親世代が愛読していたようなものばかり読んでいるのですよ。良い作品は世代を超えて伝えられていきますから、もちろんそれがいけないということはありません。むしろ、自分が知らないことをたくさん知っているので、とても尊敬しています。
どうしてそのような作品を好むのかと聞いてみたところ、親戚のおばさんが好きで、借りているうちにはまってしまった、ということでした。「今のかわいくて綺麗な絵の話も好きだけど、昔の劇画チックなのとか、見ていてぞくっとするよね」と言う彼女は、ホラーでも読んでいたのかしら。ぞくっとするって、そういうことですよね……?それとも、ドラマチックで感動するということ?個性のある表現は、判別がなかなか難しいところです。
でも、結局は、新旧どちらにもそれぞれの魅力があるからこそ、両方とも手放せないということですよね。そして彼女の年代が新しいものを読むのは一般的なので、逆に古いものの話すると、注目されるのでしょう。それにしても、おばさんの本が読めるなんて羨ましい……遠方に住んでいるので会う機会はとても少ないのですが、いつかぜひ見せてもらいたいです。
手紙を楽しんで書く工夫
先日友人が「考えるのが面倒だから、お礼状などの手紙を出す時には、インターネットの例文をそのまま書き写している」と言っていました。たしかに今はちょっとキーボードを叩くだけで、何種類ものテンプレートを見ることができるから、とても便利ですよね。ただ私はそれを聞いて、ちょっともったいないなあと思いました。インターネットの例文は礼儀的には正しくとも、そのままではオリジナリティがまったくないからです。
たとえば、健康に気を付けてくださいと書くところを「ご自愛ください」とするか「お身体をお厭いください」とするかでも、イメージはだいぶ違うでしょう。相手によって、または自分の好みによって選ぶ文言を変えたり、小さなところだけでもオリジナルで考えるようにすれば、手紙を書くことをゲーム感覚で楽しめるかもしれません。
最近は減っているとはいえ、暑中見舞いや年賀状、クリスマスカード、バースデイカード、お中元やお歳暮のお礼状など、書こうと思えばいくらでも文章を書く機会があります。私などは送るのも届くのも楽しみにしていますが、そういう仲間が増えればうれしいです。皆メールやSNSをやっているんですもの。手紙だって、それとたいして変わりませんよ。
本が詰まっている幸せ
この間、友人が「本棚を作ったよ」と写真を添付したメールを送ってきました。あの子は昔から不器用だったのに、いきなりどうしちゃったんだろうと思いつつ見てみれば……なんと、全体が傾いていたから驚きです。もともとそういう設計だったのか、それとも作っていたら何かを失敗してこうなってしまったのか、たぶん前者とは思いますが、聞けていません。
しかし、本はしっかり縦にして並べるものだというのは、ある意味固定観念でもありますよね。最近のユニークな棚は昔からある物のように四角とは限らず、楕円形をしている物もありますし、横に置いて積み上げる物もあります。あれも最初はびっくりしましたけれども、そういうデザインと思えば、画期的だなと感じますもの。そう思って見ていると、もっとお洒落な部屋に住んでいたら、すぐに購入したいくらいうきうきしてきます。
でも私、ただ段ボールを積んだだけの中に、サイズも向きもぐちゃぐちゃに本が並んでいる様子も好きなんです。とにかくそこに、ぎゅっと詰まってたくさんあるぞっていうイメージが、幸せをくれるんですよね。だから時々行われる古書祭りなどに行くと、一日中でもいられます。結局のところ、棚にも同じものを求めている気がしないでもありません。