子供の頃、怖い映画を見た後のお風呂は恐怖でした。本当に小さな頃はドアを開けたまま「お母さん、そこにいる?」とか言いながら入ったものです。大人になった今は成長したので、ホラー映画を見ないという選択肢をしています。昔はテレビの選択権がなかったので、悲しい事態になっていたのです。
しかし先日昼間、居間から悲鳴が聞こえました。何事かと思って行けば、母が幽霊の出てくるDVDを見ていたようで……。「夜にはとても見れないから」ということなのですが、昼でもなかなか厄介です。
ちなみにこの作品、私は小説で読みかけて、途中でやめました。文章でも怖いんですもの。暗くほの暗い作品です。一時期有名だったリングとか、そういうタイプですね。演者さんは平気なのかしらと思うけれど、聞くところによると、お祓いとか行くらしいですね。やっぱりいろいろ、よくないことが起こるのでしょうか。こうして書いているだけでもびくびくしている私です。
しかし友人の中には、ホラー大好きな人もいます。夜中でも食事中でも見られるのだとか。あの暗い画面がぞくぞくするそうです。びくびくとぞくぞく。擬音語なのに、その胸の内が明らかで日本語ってすごいなって思います。
新刊と古書リサイクル
インターネットで古書の買取りをしてくれるというサービスがありますよね。それを友人が愛用しています。彼は職業柄、大量の本を読む人です。しかし図書館だと貸し出し期限が決まっているし返すのも面倒だと言って、毎回購入しています。読了後は彼には不要になるので、ある程度たまると箱に詰めて、買い取りサービスに引き取りをお願いするのだとか。わざわざ重い本を運搬しなくていいし、売ったお金は次の書籍を買うときに使えるから、一石二鳥だと喜んでいました。
今はいろいろなところでこういったことをしてくれていますよね。売ったお金は寄付に回してくれるところもあり、それは一度使ったことがあります。古本屋で買ったものには印税は支払われませんから、作家さんや出版社が潤うわけではありません。古書店の方は自分が不利になる取引はしないでしょう。ということで、寄付しても誰も損はしないのです。どうせ一度払ったお金、戻らずともそれでどこかの国の子供達が助かるのなら、それがいいと思いました。
新刊を買って応援したいと思う反面、このようなリサイクルも素敵だと感じてしまうので、どちらで買うか悩んでしまうくらいです。新旧とわず、紙の本と電子書籍がバランスよく市場に出回ればと、ちょっと夢のようなことを考えてしまいます。
サンタクロースが与えてくれるもの
突然ですが、子供の頃サンタクロースを信じていました。でもクリスマスプレゼントを貰ったことはありません。母が「うちは煙突がないから、サンタさんが来ないんだよ」と言ったときは、大泣きしたことを覚えています。「友達のうちは毎年来るのに……窓から入ってきて」と鍵を開けて置いたこともありますね。もちろん来てはくれませんでしたが。
玩具も高価ですから、今思えば両親も大変だったのだろうと思います。途中から父が、お菓子の入った靴を買ってくれるようになりました。そして今はそれを、私が母に買っています。あれ、中身の割には高いんですけどね。まあ年に一度の子供扱いです。本棚を片付けていたらクリスマスの絵本が出てきたので、懐かしく思いだしてしまいました。
今は彼が、架空の存在だと知っています。でもいないと知りながら小さな子には「いるんだよ」と話す大人は多いもの。自分は信じていないのに、なぜでしょうね。不思議です。でも、とてもいいことだと思います。なんとなくですが、子供を守ろう、愛そうという心が見える気がするんです。
夢のある存在は、私たちに想像する余地を与えてくれています。それが感受性を育てることにもつながるでしょう。赤い服、白いおひげのサンタクロースが、いつまでもやってきてくれますように。
パソコン作業と運動不足
座卓でパソコンを使用しています。以前は胡坐をかいていたのですが、あの姿勢は腰にとても負担がかかるようですね。なんでも背骨がまっすぐにならないのがいけないのだとか。あっという間に腰痛になり、今は正座をしています。しかし今度は腕がだるくて仕方ありません。おそらくは座高が高くなったことにより、キーボードを載せている机と自分の腕の高さがあっていないのでしょう。これらの調整は本当に微妙ですよね。以前、パソコン作業は立ったまますると、運動不足が改善すると聞いて試してみたこともありましたが、二日ほどで断念しました。なにせ慣れないことなので、体が痛くて仕方ないのです。昔からこの体勢だという友人はそれを乗り越えれば大丈夫と言ってくれましたが、全然集中できなくて止めてしまいました。
ちなみに私は、読書を座ってすることはほとんどありません。たいていは仰向けだったりうつぶせだったり、ごろんと横になっています。気楽に読むものだからという意識があるのでしょうね。ただ仰向けは腕が痛くなり、うつぶせは腰が痛くなります。パソコンでも読書でも痛みが……ということは、単に私の体力不足もあるのかもしれませんね。どうやら毎日のストレッチだけでは足りないようです。
小口がばらばらの理由
本棚を整理していて気がついたのですが、文庫の小説の小口って、とても揃っているものと、そうでもないところがありますよね。たぶん同じ方法で作っているのにどうしてだろうと不思議に思い、調べてみたところ。「天の部分、つまり上の部分が揃っていない物は紐のしおりがついているタイプで、後から裁断して揃えることができないから」と聞いて納得しました。たしかに揃ってないと思うものには、しおりがついていたからです。なるほど、ここを切ったら困ってしまいますものね。
本は好きで昔からたくさん読んでいますが、こういうことについては考えたことがありませんでした。文庫にハードカバーに雑誌にコミック。書籍の種類はいろいろありますから、トリビア的なものが、まだまだ隠されているかもしれませんね。いっそ、そういうネタを集めた本を出してほしいくらいです。それとも既にどこかにあるのでしょうか。
そういえば、友人が工場見学に行くのが趣味なのだそうです。見せてくれるところは結構あるんだよ、と言っていました。印刷会社の中はどうなっているんでしょう。いきなり見学場所を探すのは大変なので、まずは図書館に行って、工場の本でも探してみようと思います。
父と娘の読書事情
知り合いに書店の娘さんがいます。遠い昔の子供の頃、毎日たくさんの本に囲まれていられて羨ましいと言ったところ「本は大っ嫌い」としかめっ面が返ってきました。小説一冊、完読したことはないそうです。どうして嫌いなのと聞いても、明確な答えは得られず。でも大人になってから教えてくれました。「だってお父さん、毎日本ばっか読んでいたんだもの」小さい彼女は相手にしてもらえなくて寂しかったのでしょうね。今聞けば、なんともかわいらしいエピソードです。
そういえば、私も昔は父の前で大騒ぎしたものでした。「そんなのばっか見てないで、どこか行こうよ」と、手の中の文庫本を奪い去ったこともあります。たくさんの漢字と小さな文字がいっぱいでいかにも難しそうだったその作品。当時流行りのサスペンス……というのを知ったのは数年後ですが、ずいぶん怒られましたね。うるさい静かにしろ、宿題でもしてろ。いやはや、父親というのも大変です。
ちなみに書店の彼女は、その後読書の虫になりました。反抗期で父親と会話をしなくなったら、どうでもよくなったとのこと。でも今はお互いいい年なので、その年代は脱しています。今は二人並んで、読書兼晩酌タイムをすごすようですよ。本当に、お父さんも大変です。
失いたくない日本の音
「さらさら」という言葉を聞いて、次に続くものはなんでしょう。私は「舞う」「流れる」を想像しました。風にのって砂が舞う様子、ゆったりとした小川を、水が流れる様子です。「さらさらの」とすれば、後ろの来るのが「髪」や「布」でも使えますね。
どれも全く違うものなのに、ひとつの単語からこんなにたくさんのものを思い浮かべることができるなんて、日本語は不思議なものです。外国の方からみると、どうやら我が国の言葉は難しいらしいですね。母国語として日常使いしている私には難易度がいまいちわかりませんが、これも文化の違いということなのでしょう。私たちが苦労して英語を学ぶのと一緒です。
私が日本文化の中でとりわけ美しいと思うのは、音を愛することです。音楽ではなく音。夏の風鈴に、秋の虫の声。風が葉を揺らし、波がさざめく。自然が生み出す美しい調べ。歌を歌えなくても楽器を演奏できなくても、耳にすることができるものばかりです。
昔はこれを、文化などと考えませんでした。でも外国の方に、それはただの雑音だよと言われて、日本独自のものだと知ったのです。夜遅くまで多くの店が営業し、日々喧騒の中で生活をしているとしても、けして失いたくはないものだと思います。
素敵なジェネレーションギャップ
インターネットを介して友達ができました。しかしそうとは言っても、私は彼女たちの本名も住んでいる場所も知りません。最近やっとお互いの年齢について話したのですが、驚きましたよ。二十代から四十代と、多岐にわたっていたからです。悩みごとの相談をし、一緒に冗談を言う間柄で、顔を合わせたことはないけれど、関係は誰もが対等でした。その中では、それこそ一回り以上も年の違う人達がいたのです。
現実社会では、どうしても同世代が集まります。その方が話題もあうし、気持ち的に楽だからです。実際の数字を知らないとしても、外見から判断もしますよね。でも相手の見えないネットだからこそ、こんなことがあるのです。広い可能性がとても素敵。もちろん、年を公開しても、関係は今まで通り。くだらないことで笑いあい、互いの愚痴を聞いたりしています。
そうそう、お互いに一番好きな本の紹介もしたんですよ。これはさすがにバラバラで、自分には縁がなかった話についても知ることができて面白かったです。ジェネレーションギャップというと良い意味には聞こえませんが、こうして刺激し合う関係もあるんですよね。リアルでの知り合い同様、彼女たちも大切にしていきたいです。
続かない読書記録
先日、有名なスポーツ選手は、ノートに記録をとっているという記事を読みました。練習で気になったことや改善点、数値的なもの等々、気付いたことをとにかく何でも、書きとめるのだそうです。それを後から見返していろいろ考えることによって、見えてくるものがあるのだとか。そこまでの信念というか、情熱ってさすがですよね。尊敬します。
かく言う私は、つけた方がいいと言われている読書記録すら、続きません。本は読むんです。でもそれをいちいちノートに書くのが、面倒なんですよね。ああ面白かった、でいいんじゃないかと思ってしまいます。もちろん知識として記憶すべきことは文字にするんですけど、そちらは直接、ページに記入しているんですよ。本が傷むと気にした時期もありましたが、今は、こうして自分の身になるならと割り切ってしまっています。
必要だとか、ためになるとか言われても、嫌になってしまうことはあるものです。私も心を入れ替えてチャレンジすれば、きっとできるのでしょう。でも、それが苦痛になって、読書が嫌いになってしまっては本末転倒ですよね。「頑張らなければいけない」「やっぱり無理するのはやめよう」と二つの気持ちの間で揺れながら、今日もページを繰っています。
それぞれの精神安定剤
先日、今までに何十回と見ているDVDを、再試聴しました。ストーリーも台詞もわかっているのに繰り返してしまうのは、たぶん安心感なんだと思います。これを再生するのは、決まってちょっと疲れているとき。「なにか良いことないかなあ」と日に何度も呟くようになったら、視聴のタイミングです。
でも、じっくり画面を見つめているわけではありません。音声を聞きながらぼんやりしていることもあるし、本を読んでいることもあります。要は、あのDVDが流れているという状況が、私を安心させるんです。
このように精神安定剤になるものは、皆さんそれぞれ持っているかと思います。親戚の赤ん坊がいつもタオルを握り締めていることも、友達が勝負の日には決まって同じハンカチをポケットに入れていることも、同じ意味合いですよね。前者はまさしく安定剤、後者は験担ぎと言えるでしょう。ちなみに、落ち込んだ時に見る本というのも決まっていたりします。それは軽い気持ちで読める四コマ漫画。登場人物たちの明るい言動が、私の悩みなど些細なものだと吹き飛ばしてくれるのです。
長い人生を生きていく中で、これらのものには、きっと何度も助けられることでしょう。ずっと大切にしていかなければ、と思いました。